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「ジェンダー・フリー」に触れる「可能性がある」人は、講師になれない?
参照:東京都に抗議する!
「人権講座」での上野千鶴子さんへの講師の委託が、「講演で『ジェンダー・フリー』の言葉や概念に触れる可能性」を口実に、東京都によって拒否された事件。抗議署名への賛同を求める運動があります。
東京都国分寺市が都の委託で計画していた人権学習の講座で、上野千鶴子さんを講師に招こうとしたところ、「上野さんは女性学の権威。講演で『ジェンダー・フリー』の言葉や概念に触れる可能性があり、都の委託事業に認められない(都教育庁生涯学習スポーツ部)」と委託を拒否した事件がありました。
実は東京都教育委員会は2004年8月に「(ジェンダー・フリーは)男らしさや女らしさをすべて否定する意味で用いられていることがある」として、「男女平等教育を推進する上で使用しないこと」との見解をまとめているらしいです。
実は、フェミニズム運動の中にも「ジェンダー・フリー」という用語の使い方にはいろいろな意見があり、特に上野さんは「ジェンダー・フリー」という言葉を積極的に使う立場の人ではありません。にもかかわらず、「『ジェンダー・フリー』の言葉や概念に触れる可能性」を口実に上野さんを断ったあたりが、東京都側の失敗です。また実は、今回の事件は、「ジェンダー・フリー」を攻撃する人たちが実は単に「ジェンダー・フリー」だけを攻撃したいのではなく、その目的がフェミニズム運動への攻撃、女性差別に反対する運動への攻撃であり、その本音では「男女の平等」自体に反対したいんだということの、ボロが少し出ています。
特に石原都知事以降の東京都は、教育現場における「ジェンダー・フリー」バッシングが激しく行われ、「日の丸・君が代」の執念深い強制と相まって、なかなか厳しい状況があります。今回の事件は、相手方(東京都)の失策もあるので、はっきりと抗議してやり返していく意味があるように思います(あと、上野さんを拒否したということで、分かりやすくフェミニズム/女性学への攻撃として象徴的に使える事例だという面もあるかも。上野さんという「権威」を利用するという点では両面あるけどね)。
この件について、抗議文をまとめ、連名で東京都に申し入れようという動きがあります(署名の第一次締め切りは1月26日(木)正午)。サイトを下につけますので、のぞいてみてみてください。
厳密に見ると、抗議文の文面自体にはやや私の方向とは違う部分もありますが、今回の事件に抗議すること自体は大切だと思うという理由と、抗議文作成過程の成り行きもあり、わたしも署名(公式に賛同)しています。
この抗議文に賛同/署名するのもよし、この署名にこだわらず自分で独自の抗議文をつくって東京都に送るのもよし、また、この事件以外にも抗議すべき事件は日本中世界中で山ほど起きて追いますので、そういったことに取り組むのもよし----とりあえず、こんな取り組みもされています、というお知らせです。
【署名を集めているサイト】●東京都に抗議する!
http://www.cablenet.ne.jp/~mming/against_GFB.html
上野千鶴子東京大学大学院教授の、国分寺市「人権に関する講座」講師任用をめぐる東京都の対応について関心をもっていただいたみなさまへ。
このページは、この問題に関する情報を提供し、以下の「抗議文」に賛同(署名)するという行動に加わっていただくために開設したものです。わたしたちは、たくさんの方々に、わたしたちのこの行動に賛同し、加わっていただきたいと願っております。どうか、関心おありの方へ広くお知らせくださいますよう、お願いいたします。
(署名の第一次締め切りは1月26日(木)正午)
【事件の概要(新聞報道)】
●人権講座:上野教授の講師を拒否 都教育庁が思い過ごし
【上野さんによる東京都への公開質問状】
「署名を集めているサイト」の後半部分に載っています。
【「ジェンダー・フリー」についての上野さんの意見】
http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htm
上野さんを含む対談の記録です
**注:私(ひびの)は、上野さんとは意見が異なり、「ジェンダー・フリー」を単に「男女平等」に置き換えることには反対です。なぜなら、この置き換えをしてしまうと、「ジェンダー」の概念や「ジェンダー・フリー」の運動が持っていた問題提起の射程を狭めてしまうからです。
少なくともバッシングが激しくなる前は、「ジェンダー・フリー」の運動の現場ではLGBTIの問題が積極的に取り上げられてきたと思います。また「男でも女でもない人」の存在と権利を積極的に肯定する雰囲気があったと思います。また実際、私は、そういった雰囲気と運動の中で、LGBTIAQへの差別を問題化する発言の場をもらって/獲得してきたという事実もあります。
そして、「ジェンダー・フリー」を「男女平等」とまとめてしまうことは、仮にその意図はなくても、「LGBTIAQへの差別を問題化する視点」を切り捨ててしまうものに思えるからです。
というのも、LGBTIAQへの差別を問題化するためには、「男女平等」は前提として踏まえるべき論点(だから例えば、自身の男性中心主義に鈍感な一部のゲイ活動家の言説は批判されるべき)ですが、「男女平等」だけでは例えば同性関係嫌悪(ホモフォビア)や性別二元主義、性愛強制主義の問題点を問うことができません。実際に、各地での「男女共同参画条例」をめぐって、バックラッシュ側が「男女差別は確かにいけないが、同性愛を奨励するのは問題だ」などと言っている事実を見るとき、「男女平等」では収まりきらない論点をあえて自覚的に出していく必要性を強く感じます。
また、「男らしさ」「女らしさ」の強制の問題は、例えば「典型的な男」ではないゲイ男性やバイセクシュアル男性の問題でもありますし、トランスジェンダーは毎日「らしさ」の強制と向きあわされています。「ジェンダー・フリー」の運動と認識は、そのもともとの出自を越えて、女性差別や男女平等だけではなく、同性関係嫌悪や性別二元主義をも問う射程を現実に持ってしまっています。
言い換えると、「性(別)に関わる差別と権力関係」には、男性中心主義だけでなく、異性愛中心主義や性別二元主義、そして性愛強制主義といった様々な問題があることが、今では明らかになっています。バッシング派は、これらのどれか一つだけを攻撃しているのではなく、まさにこれら全てを問題にし、攻撃をしてきています。この状況の中で、焦点を「男女平等」だけに絞るということが、本当にバッシング派への反撃になるとは思えません。
さらに、最も分かりやすく言うと、そもそも「男女平等」という表現は、この世界には男性と女性しかいないという性別二元主義/「男女という制度」の枠内の認識/表現だと思いますし、その言葉を使うことによって「男でも女でもない人」の存在を一層不可視化してしまいます。私にとっては、女性差別「だけ」を特に問題化する必要性がある場合以外は、できるだけ使わない言葉です。
【東京都教育委員会の「ジェンダー・フリー」への公式見解】
●男女平等教育について
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